ブラーフモ・サマージ

ナレンドラ ナート ダッタとして修道院生活時代の名で知られていたスーワミ ヴィヴェーカーナンダは、1863年1月12日にコルカタのベンガル貴族の裕福な家庭で生まれる。父親ヴィシュワナート ダッタは幅広い分野の主題に興味を持つ弁護士、深い献身と心、高い気品溢れる母ブヴァネーシュワリ デーヴィーのもとで育つ。早熟の少年ナレンドラは音楽、スポーツ、あらゆる学問に優れ頭脳明解な少年時代であった。生まれながらヨーガの気質が強く、少年時代から瞑想を実践していた。 彼はカルカッタ大学を卒業するまでに、さまざまな科目、特に西洋の哲学と歴史に関する膨大な知識を習得する。 しばらくの間、当時最有力の社会改革グループである「ブラーフモ・サマージ」に参加していた。

「ブラーフモ」というのは、インドで伝統的に神聖なものを意味する「ブラフマン」の派生語で、「ブラーフマ(ブラフマン的な)」をベンガル語で発音すると「ブラーフモ」となる。「サマージ」とは古来「協会、集団、社交場」を意味する。この改革運動の創始者はラーム・モーハン・ローイ(1772-1833)で、インドの近代化は彼から始まると言われている。
インドにおけるイギリス支配は約1世紀半続いてたが、それはイスラーム教徒の征服とは異なるものであった。ヒンドゥー教徒はヨーロッパの科学、政治、社会制度、風俗習慣を知るうちに古来の慣習を捨てて平衡感覚を失っていく。1800年以降、西洋思想の刺激を受けたインドの宗教と社会を改革する運動が始まる。
ローイは頑迷なヒンドゥー教徒と抗争しながら、真のヒンドゥー教を擁護し、サティー(寡婦焚死)などの残酷な風習、カースト制度や偶像崇拝を排斥した。このブラーフモ・サマージは、ウパニシャッドを基礎とした合理的な有神論を唱え導いた。
会員には知識人が多くいた。
デーベンドラナート・タゴール(大詩人ラビーンドラナート・タゴールの父)
ブラジェーンドラナート・シール(科学思想の推進者)
ケシャーブ・チャンドラ・セーン(キリスト教をインド人一般に受け入れられやすい性格の者として伝道した)

ローイの死後、デーベンドラナート・タゴールの指導のもとにさらにもっと合理主義になり、のちにケシャーブ・チャンドラ・セーンの指導のもとにキリスト教思想が濃くなっていく。これらが発展と分裂を繰り返し、三つに分裂し指導的影響力を失っていった。

ラーマクリシュナ

のちにヒンドゥー教徒を復興させていったのがラーマクリシュナ(1836-1886)の宗教運動と、それに基づいた弟子のヴィヴェーカーナンダの宗教活動。 ラーマクリシュナはベンガルのバラモンの家に生まれ、カーリー女神を崇拝していた。彼は子供の頃から異常なほど神秘的霊感に富み、神と合する経験があった。キリスト教やイスラム教など、諸種の宗教の実践生活を体験したのち、一つの帰結に達する。

彼の意見は「神はすべてのものの中に現れている。しかしそれらのものには、力の現れに多少がある。人間の中に化身した神は、肉体に現れた最も顕著な神の力である。神への奉仕は、人類への奉仕によって実現することができる。」この後、ナレンドラと出会い、聖母カーリー女神のお告げに従い、彼を弟子として迎え、世界中で彷徨う魂を救う霊性の指導者に仕立て上げるための努力が始まる。 

師との出会い

ブラフモ・サマージの一員として活動していた頃のナレンドラは、偶像崇拝、多神教に反対した。彼はさらに、「絶対的なアイデンティティー」のアドヴァイタ ヴェーダンタを冒涜と狂気として拒絶し、しばしばその考えを馬鹿にしていたが、二人の会合は彼の人生の転換点となった。

1881年、ナレンドラは霊的な焦点となったラーマクリシュナと初めて出会う。スコティッシュ・チャーチ・カレッジの学長であり英文学教授でもあったWilliam Hastie教授から、ナレンドラを含む学生がダクシネーシュワル・カーリー寺院のラーマクリシュナを訪問するよう促された。

ナレンドラは2人の友人とダクシネーシュワルに行き、ラーマクリシュナに会った当初、ブラフモ・サマージで質問した内容と同じ質問を、ラーマクリシュナにぶつけたところ「私は神を見た」と言うラーマクリシュナに対して、ナレーンドラは懐疑と困惑で、ラーマクリシュナを狂人扱いし、彼のビジョンを「想像力の延長」と「幻覚」と考えた。ラーマクリシュナの思想に対し異議を唱え続け、ナレンドラは徹底的に質問を繰り返し、信頼に値するか挑戦的な態度であり続けた。

ラーマクリシュナの生まれ持った純粋な性分と寛大な愛でナレンドラを受け入れ、ナレンドラもまたラーマクリシュナに次第に惹かれていった。

 

師の意思を受け継いで欧米に渡る

ナレンドラの父親は1884年に心臓麻痺で死亡し、家族は破産する。父が残したものは借金だけだった。債権者はローンの返済を要求し始め、親族は彼らの先祖の家から家族を追放すると脅した。かつて裕福な家族の息子であったナレンドラは、その日を境に大学内で最も貧しい学生の一人になる。彼は空腹をこらえて職を求めて走りまわったが見つからず、神の存在に疑問を持つまでになり、堕落した悪い評判が広まっていった。
しかしラーマクリシュナは彼を激励し、ナレンドラはダクシネーシュワルへの訪問が増えていった。師に励まされ粘り強く職を探し、やっとの事で弁護士事務所で職を得た。そしてラーマクリシュナが存命の間は俗世間で仕事をしながら師に師事し、いずれ聖母さまに仕えるために出家する覚悟ができていた。

ラーマクリシュナから受けた影響で、すべての生き物は神の自己の形態であると学び、完全に霊性に傾倒し始め、度々思考と言葉を超えた巨大な存在の中に意識が吸い込まれるサマーディも体験するようになった。ラーマクリシュナの死後、彼はインド亜大陸を広範囲にわたって見学し、英国がインドで起こしている植民地支配の状況を直接知る。 師の見解を広める使命を受け、西洋世界へヴェーダンタやヨーガ思想の啓蒙を決心し、インドを代表して1893年に世界宗教議会への参加のために米国に渡った。
1893年にシカゴの世界宗教の議会でヒンドゥー教を導入した「アメリカの姉妹と兄弟たち」と呼ばれた彼の演説で一躍世間に評価されるようになる。ヒンドゥー教を主要な世界宗教の地位に引き上げることで異教徒からの認識を高めたことが評価されるようになった。

彼はインドでの真のヒンドゥ教の復活に大きな力を発揮し、植民地時代のインドのナショナリズムに貢献した。のちにヴィヴェーカーナンダはラーマクリシュナミッション(1897〜)とラーマクリシュナ僧院(1901〜)を創設。ヒンドゥー教のコンセプトのひとつである無私の奉仕精神を掲げている。日本ではあまり聞きなれないが、現代インドの最大教団であり、特に西洋では有名で世界的に活動をしている。

彼は人生の中で休むことなく粉骨砕身して働き続け、イギリス、欧米でヒンドゥー教の哲学の教えを広め、数百の公立・私立校で講義と授業を行った。 インドでは、ヴィヴェーカーナンダは愛国心の聖人とみなされ、彼の誕生日は全国青年の日として祝われている。